2011年9月14日水曜日

ワークライフバランスを考える

最近ワークライフバランス(Work Life balance)という言葉をよく耳にするようになりました。意味するところは仕事ばかりではなく、家族との団欒や趣味にも時間を上手に配分しましょうということだと思います。
ところで、Lifeという英単語について日本ではその名のスーパーマーケットもあることから、生活という意味でとられることが多いように思います。英語で"Every day life"と言うと確かに「日々の生活」ということになります。方や、実はLifeというのは人生という意味もあります。"That's my life"という表現の場合、「これが俺の人生、生き方なんだ」というような重みが出ます。
そこで、よく聞くワークライフバランスでいうところのライフは一体どちらなんだろうと考えます。
私にとって仕事とは紛れもなく人生の大きな位置を占めており、単なる生活の糧を得るための労働ではありません。例え、現実の生活では事実上そうなっていたとしても、多くの人にとって、一日で起きている時間の大部分をついやす仕事は、自分の人生、そして他者の人生にとっても何らか意味のあるものであって欲しいと望んでいるのではないでしょうか?
正直なところ、企業の中で言われているワークライフバランスは残業時間を減らす口実としだけに安易に使われているように見受けられます。
私は仕事に対して意義、使命感を感じやり遂げることは非常に人生のという意味でのライフを充実させるものだと信じます。つまりワークとライフ、どちらかを取ればどちらかを失うという関係ではないと思うのです。
その反面、ワークライフバランスを企業内で推進する業務を担当されており、こんなことを言う人に出くわしました。経営層にいるその人は、社員に対して「仕事に達成感を求めないで下さい。淡々とこなしてこなして下さい。」と言っているということです。こんな考え方の下では、例え今流行りのコンプライアンス遵守だけはできても、その職場から世の中で評価され、その価値を認められるようなサービスやイノベーションは決して生まれることはないでしょう。そして何より残念なのは、そこで働く人達は仕事を通じてのみ得られる貴重な人生の充足感というものを味合わせてもらえないということです。
「そんなのは個人次第」と言ってしまえばそれまでですが、折角何かの縁があって一緒に働くからには共によく生きるということを私は大事にしたいと思います。

2011年9月11日日曜日

それぞれの9.11 10年目を迎えて

10年前の今日、自分はアメリカに居た。ボストンで大学院に通っていた。
その日は講義が昼からだったので、予習のために夜中にまで起きていたこともあり朝はいつもよりゆっくり目に寝ていた。そこで、日本からの一本の電話で起こされた。その電話の第一声は「飛行機がビルに突っ込んだが大丈夫か?」。「ん?」まだ寝ぼけていた私は、何を言っているのかさっぱり理解不能であった。ともかく「ここは大丈夫だよと」とだけ答えて早々に電話を切った。そこでテレビを付けてみる。すると、これまで想像もしたこともない不思議な光景が映し出されていた。WTCビルから煙が出ている。「何これ?」それしか頭に浮かばなかった。アナウンサーの言葉は飛行機がWTCにぶつかったということを悲壮な声で繰り返し伝えていた。ようやく日本からの電話とテレビの中の光景が完全に一致した。「大変な事故が起こったもんだ」と目を見張った。なす術もなくテレビを見つめていると、その次の瞬間、さらに信じられない光景が目に飛び込んだ。双子ビルのもう一つの棟に別の飛行機が突っ込んだ。私はとても自分の目の前で起こっていることを信じることが出来なかった。
その日はあまりの事態の大きさに、現地の学校関係はほとんど臨時休校となった。ところが私が通っていた大学は通常どおり開講するという選択をした。早い昼食を済ませ、これまで味わったことがない気分のまま私は大学へと向かった。通学途中のボストンの街並は、昼間にも関わらず、息をひそめたように信じられないほど静まり返っていた。アメリカでは全てのビルと言って良いほどに国旗が見られる。そのいつも誇らしくかざしているはずの全ての星条旗が半旗で掲げられ、ただ静かに風に吹かれていた。こんな悲しそうなアメリカは見たことがない、アメリカが泣いている。そう私は肌で感じた。
その日、大学では本来Strategy(戦略)の講義が予定されていたが、通常の授業などできるはずがなかった。静まりかえった教室で、教授は「今日の出来事について何か言いたいことがある人はいるか?」と生徒に発言の機会を与えた。いつも真っ先に発言する連中もこの日だけは黙っていた。ただ何人かが自分の感じたことをまとまらない口調で発言していた。不思議なことにその時、アメリカ人学生の言ったことは全く記憶していない。いまだに自分が鮮明に覚えているのは他の留学生仲間の一人が言った次の言葉だ。「今日の出来事は何らかの憎しみから起こったことだけは間違いない。これが何に端を発しているか振返って考える必要があるのではないか」。普段なら誰かの発言に対して必ずディスカッションとなるビジネススクールも、この日だけは誰も何も他の人間が発する言葉に口を挟むものはいなかった。
私にとっての2001.9.11はそうやって過ぎた。

その日からアメリカは変わった。特に外国人に対しての見方や接し方が変わった。それはこんな風な形でも現れた。その後、飛行機で国内を移動することがあったが、テロ対策ということで乗客数名が無作為に抽出され靴までぬがされるというセキュリティチェックをされるようになり、私も含め選ばれた人々の顔ぶれは全員見事にヨーロッパ系ではない外国人であった。特に一見してイスラム系とわかる人がいつも選ばれていた。恐らく、私の名前がHondaやToyotaだったら選ばれなかっただろう。

それから程なく、翌年に私はアメリカを離れた。そして、アメリカは対テロ戦争の深みに入って行った。9.11の悲しみはいつしかテロに対する怒りに変質していた。
私はもう、帰国してからは肌で911を感じることはできなくなった。

後日知った数字だが、アメリカは9.11で約3,000人もの犠牲者が出たという。さらにその後の対テロ戦争でさらに直接の被害者数の倍にあたる約6,000人のアメリカ兵が命を落とした。その一方、テロ支援国家とされたイラクとの戦争では現地民間人に多数の犠牲者を出すこととなった。その正確な数は分かっていないが、WHOの推計では約8万人と言われている。
そしてついに、
2006年12月30日 サダム・フセイン処刑
2011年5月2日 ウーサマ・ビン・ラーディン殺害
オバマ大統領はビン・ラーディン殺害を全国テレビ中継を通じて "Justice has been done"(正義はなされた)と宣言した。ホワイトハウス周辺やWTC跡地では数千の群衆が歓喜の声を挙げたという。

しかし、本当にこれで全ては終ったのだろうか。日付は定かではないが、アメリカがイラクに進行し、少なくとも8万人もの大切な人を失ったイラクの人達に、彼らにとっての新たな9.11を心に刻んでしまっていないだろうか。私は9.11直後、クラスでの友人の言葉をふと思い出す。

10年目の9.11にあたり、私はこれまでの10年間に起こったそれぞれの「正義」のために命を落とされた方々の冥福を只々祈ると同時に、人類の叡智がいつの日かこの悲しみと憎しみのスパイラルから抜け出せることを希望してやまない。

2011年9月1日木曜日

SONY ハワード・ストリンガーCEOの残念な言葉

本日、ソニーがタブレット端末を発表しました。平たく言うとiPadのソニー版が世に出ました。この機器そのものについては多くのネットメディアに取り上げられていますので、詳細はそちらにおまかせすることとします。
私が今回の発表で何よりも一番気になったのは、ハワード・ストリンガーCEOが発した次の言葉でした。
「誰が最初に作ったかでなく、誰がより良いものにしたかが重要だ」
私は正直、これには自分の耳を疑いました。確かにビジネス的な成功を考えた場合は事実であると思います。しかし、まさかソニーのトップからこの言葉が出るとは思いませんでした。

私はソニーの創業者の井深 大さんが東京通信工業株式会社設立趣意書に書かれた最初の言葉が大好きでした。
真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設
そして、時の週刊誌から「モルモット」と揶揄されたときの反応も好きでした。以下は少し長いですがソニーホームページ、Sony Historyからの引用です。
“しかし後年、井深は『ソニー・モルモット論』に対し、「私どもの電子工業では常に新しいことを、どのように製品に結び付けていくかということが、一つの大きな仕事であり、常に変化していくものを追いかけていくというのは、当たり前である。決まった仕事を、決まったようにやるということは、時代遅れと考えなくてはならない。ゼロから出発して、産業と成りうるものが、いくらでも転がっているのだ。これはつまり商品化に対するモルモット精神を上手に生かしていけば、いくらでも新しい仕事ができてくるということだ。トランジスタについても、アメリカをはじめとしてヨーロッパ各国が、消費者用のラジオなどに見向きもしなかった時に、ソニーを先頭に、たくさんの日本の製造業者がこのラジオの製造に乗り出した。これが今日、日本のメーカーのラジオが世界の市場で圧倒的な強さを示すようになった一番大きな原因である。これが即ち、消費者に対して種々の商品をこしらえるモルモット精神の勝利である」とし、さらに「トランジスタの使い道は、まだまだ私たちの生活の周りにたくさん残っているのではないか。それを一つひとつ開拓して、商品にしていくのがモルモット精神だとすると、モルモット精神もまた良きかなと言わざるを得ないのではないか」と、語っている。”
モルモット精神。私はこれが革新性にあふれたWalkmanを生み出した「カッコいいSONY」の原点だったと確信します。どうしても私は今回のCEOの言葉からは、かつてのソニーが目指したゼロから世に無いものを作り出すというような迫力、ワクワク感が感じられません。

もう、SONYはあの頃のSONYではなくなってしまったのでしょうか。私は勝手に、また一つの時代が終ったような、少し寂しい気持ちになりました。