2012年11月17日土曜日

自分達の未来は自分達で創りたい


衆議院が解散しました。
一部の方にはお話しておりましたが、以前から私は次の衆議院選挙に立候補したいと思っていました。ただ、あまりに急な解散だったので、個人的にはタイミングが悪く実際に行動することは非常に困難な状態となっています。

それでも、いや、むしろそれだからこそ、
今の自分の思いだけは書き留めておきたいと思います。

私はどこの党にも所属するつもりはありません。
なぜなら自分自身が心から賛同する党などありませんし、
選挙に勝ちたいからという理由で勝ち馬に乗るために党の意見を優先し、
自分の考えをねじ曲げてしまうような卑しいことはしたくないからです。

私が一番やりたいのは日本の閉塞感を打開すること。
全ての人に、自分の責任のもとに努力すれば、必ず良い方向に向かっていくという
実感を持ってもらいたいのが私の願いです。

子供のころから、日本の政治はダメだダメだと聞き続けてきました。
そしていつしか大人になると、同じように育った友達達も口をそろえて、
ダメだダメだと言うようになりました。
そう、私も確かにこれではダメだと思います。

でもダメだダメだと言うだけだったら何も変わりません。
だったら、人に頼れないんだったら、大人なんだから人のせいにしてばかりないで
自分でやってみるしかないなと思うのです。

「政治家になりたいと思う」と話すと、それを聞いたほとんどの人は顔をしかめます。なぜなら、普通の人がいくら職業選択の自由だと言っても、単に勉強したり、努力するだけでは着ける職業ではないと知っているからです。

政治家になるは三つのバン(地盤、看板、鞄)が必要とよくいわれます。
一つ目の地盤は選挙区内の支持者の組織を指します。
二つ目の看板は知名度を意味します。
三つ目の鞄は札束が入った鞄、つまり多額のお金そのものです。

どう考えても、こんなのが全て揃っている普通の人なんて居るはずがありません。
だから、大多数の人々が現在の政治家に対して「特定の恵まれた環境に居る別世界の人」というイメージを持ってしまうのは仕方のないことだと思います。
そして、さらにマスコミが描き出す政治化像も手伝って、自分達には全く関係のない権力者層というのを自分達で勝手に想像し作り出しているのではないでしょうか。
つまり、自分達とは違う人達。政治をするのはそんな人達だ。
だから、自分達では国づくりには参加できない、自分達では国を変えられないという思い込みが深く根付いた状態となっているのではないでしょうか。

私は実はこれが、本当の意味で日本に閉塞感を作り出している元凶だと思っています。そして同時に、自分達もこんな条件だったらどうせ無理だと諦めて、思考停止してしまっているのではないかと感じています。

でも、本当に国づくりに参加することはできないのでしょうか?
本当に当選に必要とされるこれら条件は絶対なのでしょうか?

最初の地盤について、純粋に候補者を応援する組織があることは素晴らしいことと思います。
しかし、既存の団体の場合、なぜその候補者を支持するのでしょう?
それは、その団体にとって候補者が当選した場合、有利にことを運んでもらえるからという期待からであることはすぐに理解できると思います。
つまり特定の団体に便宜を図ること、これは本当の民主主義でしょうか?

次の知名度については努力を積み重ねた結果、自然と高まる名声は間違いなく誇らしいことです。
しかし、ただ有名であることは本当に信頼が置けるということでしょうか?
身近なビジネスの世界では雪印という企業がありました。NOVAという英会話教室もありました。そしてアメリカにはエンロンという企業がありました。
いずれも、それぞれ業界トップの会社でしたが、あっさりとその存在は消えてしまいました。
名前を良く知っているから、テレビでよく見る人だから、それが本当に民主主義を
進めていってくれる条件なのでしょうか?

最期のバンである鞄、つまりお金。正直、これが一番やっかいなモノだと思います。
有権者に賄賂としてお金を配るということをしなくても、選挙に出るだけで莫大なお金がかかります。
衆議院選挙の場合、立候補するためには供託金というお金を納めないといけません。この供託金というお金の額はなんと、300万円/人です。
確かにこれは有効投票総数の10%以上の票を集めると返納されます。
しかし、逆にその数に満たない場合、例えば有効投票数の9.5%だと300万円は戻ってきません。
普通の人にとって300万円というお金はとても直ぐに用意できる額ではありません。そして、当然ながら簡単にダメだったからと言って諦められる額でもありません。
何でこんなものがあるのか?それは選挙による売名や立候補乱立を防ぐためとだそうです。
では、民主主義の国ではこれは当然必要とされているものなのでしょうか?
実はアメリカ、ドイツ、イタリアには供託金制度はありません。
イギリスにはありました。額は9万円でした。カナダもありました。額は7万円です。
さて、これらの国々では選挙のたびに混乱し、日本よりも劣った民主主義になっているのでしょうか?
決して、そうは言えません。
それに供託金だけではなく、選挙事務所を設立するとしたらどんどんお金が必要になります。名前を連呼する選挙カーにだってお金がかかります。

この当選に必要とされる三つのバンは民主主義を押し進める個人の資質とは全く関係がなくむしろ、邪魔をしている要素であることは明らかです。
だったら、この3つのバンがなくても、知恵と工夫で何とかやりようがあるのではと私は考えます。つまり、誰もが参加しうる全く新しい方法で選挙に臨めないかと考えます。

例えば、時代の変わり目には、鍵となるテクノロジーが必ず存在します。
羅針盤によって大航海時代が始まり、活版印刷技術の発展でそれまで特権階級しか手にできなかった書物が普及しヨーロッパに宗教革命をもたらしました。
現在、私たちは情報を瞬時に入手できるインターネット、そして世界中の人と瞬時に繋がることができるソーシャルメディアを手にしました。
私はそれらがもっと、国づくりに活かされるべきだと思っています。

地盤や知名度はなくても、自分の考えに共感を持ってもらえる人々に直接メッセージを伝えることができるのではないかと。
そして、さらに一方的に伝えるだけでなく、もっと多くの人からも意見を聞くことができるのではと。
高いお金を出して選挙カーを借りて、人を雇ってまで迷惑であることを知りつつ赤ちゃんが寝ている横を大声で名前を連呼しながら走り回るのではなく、もっと上手に自分を知ってもらうことができるのではと。
しかしながら、日本では選挙におけるインターネットの利用やソーシャルメディアは公職選挙法に違反するとされています。
私はあえて、これらの問題を世の中に問いたいと思っています。

例えば、選挙に出るだけで300万円もお金がいること。
選挙運動にインターネットは使えないということ。
本当にこんな制度でいいですか?これが日本が良くなるために必要なルールですか?と。
ここから変えないと、結局は参加すべき人が参加できず、何にも変わらないのでは?ということを。

おかしいと思うことは、おかしいと思う人の手によらないと治りません。
なぜなら、これまでの人々はおかしいルールで勝ったのですから、その人達にとっては正しいルールだからです。自分にとって正しいルールを誰もあえて変えるはずはありません。

私にとって政治家を志すことは手段の一つであって、目的ではありません。
私が政治に参加することで、誰もが国づくりに参加することができるということを実感するきっかけや、変化を起こすことができるということを、みんなに知ってもらいたいのです。それさえできれば、同じような、決して特別でない境遇にいる、私よりもっともっと優秀な人々が、「あいつでも出来るんだから俺もできるに違いない」ということに気づいて、どんどん後に続いてくれるのではと信じています。

今、日本の閉塞感を打ち破るために一番必要なのはイノベーションであると私は思っています。イノベーションと言っても何も特別なことではありません。

私が全ての人に伝えたいことはとてもシンプルです。
これまで当たり前だと思って気づかないうちに諦めていたり、許容してしまっていた自分達の思考や行動を制限する社会システムは捨ててしまう必要があること。
そうすることで、未来は単に誰かを選んで任せるのだけではなく、自分達で創っていけるのだということ。

Let's do it. 私たちから始めましょう。

前川純一

2012年5月1日火曜日

しゃがむこと

約3ヶ月ブログを書くという活動を休止していました。
「継続は力なり」とはその通りだと思います。
でも、単に続けるだけではなく更なる高みに至るには、ぐっと力を溜め込むことも必要なのではと、あるときに思いました。ちょうど、ジャンプをするときに深くしゃがみ込むように。

そろそろ、伸び上がりたいと思います。





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2012年1月21日土曜日

Appleが次に革新する世界は「教育」そして「出版」

Appleが現地時間1月19日に新製品発表のスペシャルイベントを開催した。これまで、このスペシャルイベントでは毎回、Steve Jobsによって驚かされっぱなしであった。残念ながら彼はもうこの世には居ない。今回のイベントでは驚かせて欲しいという観点からは、やはり少し寂しさがあった。

それでも、今回のイベントで発表されたものは新たなディバイス(機器)ではないが、私としては非常に印象に残るものだった。

今回、Appleが新たに再発明(reinvent)しようとしているものは教科書。そして、教育・学習のあり方だった。

今回のイベントでは確かに、教育という現場で多数を占める「学ぶ側」が手にする教科書について、そのインタラクティブさを中心に多くが訴求されていた。iPadをインフラとした多くの画像や動画が活用された教科書の登場は、利用者にとって非常に歓迎されるものだろう。

意外と日本では知られていないがアメリカの教科書は、本当にでかくて重い。私は高校と大学院での教育をアメリカで受けた経験がある。事実、私が教科書を運ぶために使っていた鞄は普段日本では登山用に使っていた非常に大型のリュックだった。

アメリカのハイスクールではそのような分厚い教科書を何年にもわたってこれまで使ってきた。これでは毎日ちゃんと家に持って帰って予習復習をする訳はない。ひょっとしたらこれがアメリカの教育水準の向上にとってハードルとなっていたのかもしれない。

しかし、iPadをこれまでの教科書代わりに使うことは特段目新しいことではない。シンガポールなど教育先進国ではずっと先に全面導入を決定している。

私が注目しているのはむしろ、教科書を使う側ではなくて作る側のツール。もう少し別の言い方をすると出版する側ツールだ。AppleはiBooks Authorという新しいアプリケーションを発表し、その提供を開始した。それも無料で。このソフトは何も教科書を作るだけに限定されていない。つまり、いかなる分野の電子書籍も簡単に制作することができるように作られている。これで一挙に自分の本をつくり多くの人に提供するというハードルが下がった。

Appleは過去に、iPhoneアプリ開発においてDevelopers Kit を提供し、さらに簡単に作ったソフトを売る場所を提供することで、アプリの数を飛躍的に増やす事に成功し、結果的にそれらアプリに魅力を感じてiPhone利用者がさらに増える結果となった。

今回は書籍の番だ。ソフトウェア開発に比べて書籍を作ることはさらにハードルが低い。これまで紙の世界では例えごく少ない部数でも、自費出版するとなると最低でも何万円もした。これが自分が人に提供できるコンテンツさえ持っていれば限りなくゼロに近い費用で可能となる。

しかし、だからと言って、何でもかんでも出版されてしまってはAppleとして品質の管理がとてもできない。だから、これまで人に伝えることを得意とし、知的レベルも高い教える側の人に先ず電子書籍を作ることに参加させ、裾野を広げつつ電子書籍として質の高いコンテンツ充実を図ろうとしているのだろう。

それにしても、自分でほとんど費用を掛けずに簡単に電子書籍をつくり、出版ができる。こんな素晴らしい時代がつにやった来た。

今回も、Appleの時代を変えるすごさに敬意を表する。








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2012年1月19日木曜日

Facebook社CEOザッカバーグを発言させたSOPA・PIPAの重み

今朝、ザッカバーグ(Facebook社CEO)が自らFacebook上のフィードで発言していることに驚いた。それは抗議のためのWikipediaの一時停止にも繋がった、オンライン海賊行為防止法案「Stop Online Piracy Act(SOPA)」および「PROTECT IP Act(PIPA)」への反対の表明であった。彼の発言の原文は以下のとおり。
"The internet is the most powerful tool we have for creating a more open and connected world. We can't let poorly thought out laws get in the way of the internet's development. Facebook opposes SOPA and PIPA, and we will continue to oppose any laws that will hurt the internet. 
The world today needs political leaders who are pro-internet. We have been working with many of these folks for months on better alternatives to these current proposals. I encourage you to learn more about these issues and tell your congressmen that you want them to be pro-internet. "
以下、拙訳。
「インターネットはもっとオープンで繋がった世界を創り出すために、我々が持っているもっとも強力なツールである。我々ははこのよく考えらもせずに作られた法律でインターネットの発展を邪魔させてはならない。FacebookはSOPAとPIPAに反対し、インターネットを阻害するようないかなる法律に対して反対し続ける。 
今日の世界はインターネット肯定派の政治指導者を必要としている。私たちはここ数か月間、多くのこれら関係者たちと現在提案されている法案に代わる、より良い案について協議している。私は皆さんがこれらの問題について、より理解を深め、みなさんの代表である議員にインターネット肯定派となることを伝えてほしい。」
私が驚いたのは、ザッカバーグは単に抗議を唱えるだけでなく、読者に連邦議会の議員に対してインターネット肯定派(pro-internet)となる行動をすることを求めていることである。アメリカ人のほぼ全てが利用しているといっても過言でないFacebookの代表がこのような発言をすることには非常に大きな意味があると考える。

ザッカバーグはこれまで沈黙を続けていた。おそらく、自らが作り出したソーシャルメディア上での発言の影響力を認識し、自重していたと思われる。それが今回、明確に反対の意思とアクションを求める発言をしたことで、利用者は一斉に反法案側に活性化すると考えられる。それほど危機感を募らせていたのだろう。

今回の一連の件は、情報がこれまで通りコントロールできる・されるべきと信じている社会層と、情報を自由に世界中に発信できることが人類の権利と認識している層との闘争となる。これまでに無かった新たな闘争である。

まさに今が、新たな時代の変わり目に位置していることを実感する。しっかり目を見張って進展を見届けたい。


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どうマスコミと付き合うべきか

今日、元横浜市長の中田宏さんが書いた「政治家の殺し方」を読み終えた。過激なタイトルのもとで書かれているのは利権との闘い。

この本を読んで、特に気をつけないといけないと思ったことは、情報源としてのマスコミとの付き合い方。同氏は利権を持つものによるマスコミの利用について指摘する。

著者の中田氏は週刊誌に7週連続でスキャンダル記事を連載されたとのこと。週刊誌を自ら買うことのない私でさえ、新聞や電車内の雑誌広告で同氏に関する見出しだけは目にして記憶に残っていた。恥ずかしながら私の認識はそこで完全に止まっていた。
今回この本を読んで初めて、中田氏がその週刊誌に対して名誉毀損で全面勝訴していたことを知った。つまり、私の意識は「詳しいことは知らないけど、この人もダークなところがあるんだな」という、週刊誌の見出しから作り出された何となくのイメージのままであった。本文すら読まず記事の見出しのイメージだけで自分自身の思考を止めてしまっていたことに深く反省した。

ソーシャルメディアの普及でマスコミの影響力は弱まってきたとは言われるものの、それでもまだまだマスメディアは世論形成に重要な位置づけをしめている。それに、ネットで誰もが情報提供できるようになった分、私は逆に旧メディアの取材力に注目する部分もある。

物事の正しい理解のために、これからどうマスコミと付き合うべきかを改めて考える。先ず出来ることは、事象について漠然とイメージとして把握するだけはなく、自分の頭で常に理解する努力を怠らないことだろう。そのためには、書かれていることを決して鵜呑みにしない。そして、事象に関して複数の記事を読む。さらに、できることならば、各分野において信頼のおける情報筋を自分自身で持つということだろうか。




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2012年1月8日日曜日

「買う」から「作る」という発想の転換

お正月ということで、子供と凧で遊ぶことにしました。うちでは毎年、凧を自分で作ります。作り方はとても簡単。必要なのは新聞紙、竹ひご、そしてセロハンテープ少々。凧糸は焼豚を作る用に買ってあったものを借用しました。作り方は以下のとおりです。

  1. 新聞紙一面分を縦に半分に折り上から三分の一くらいのところに適当に直径20センチくらいの丸い穴をあけます。
  2. 竹ひごをバッテンの状態にしてセロハンテープで新聞紙の端っこに止めます。
  3. 5センチくらいの適当な幅に新聞紙を裂いて、足としてくっ付けます。
  4. 穴の空いたところで竹ひごを交わし、そこを凧糸でくくります。
どっかのサイトに紹介されていたものを参考に適当に作りました。制作時間は10分程度でしょうか。これが意外によく揚がるのです。

早速、近所の公園で「どっから見ても新聞紙」の凧を揚げていると、男の子を遊ばせに連れてこられていたママさんから「凄いですね、自分で作られたんですか?」「どうやって作るんですか?」と色々質問されました。どうやら、子供さんがちょうど凧上げをしたいと言っていたけど、最近は凧が売ってなくて手に入らなかったとのこと。一通り上に書いた作り方をさらっと教えてあげると喜んでおられました。

公園からの帰り道、そうか、たかが凧もいざお店で買おうとすると探すのが大変なんだなあと思って、家についた後に何気なくAmazonで「凧」と商品検索してみました。すると検索結果は何と803件!これじゃ、見つかったのは良いけど、今度は選ぶのが大変だ。それにしても、リアルの世界では「探す」ことが大変で、ネットの世界では「選ぶ」ことが大変。同じモノなのに皮肉な組み合わせだなあと思いました。

ありとあらゆるモノが溢れかえる現在、私たちは一つのモノを手に入れるために、探すことや、選ぶことでとても時間と労力を実は使っているように思います。凧揚げをするのに凧は当然必要です。でも凧を買うことは手段であって目的ではありません。凧を揚げるという行為を経験することが楽しいわけで、その楽しみをいかに最大化するかが大切だと私は思います。

今回、凧をささっと自分で作ったことで、それを買うために探しまわったり、選んだりする時間を節約することができました。そして、その分の時間を凧を揚げるという本来の目的に回すことができました。さらに、自分で作ったことによって、「今度は穴をこういう風にあけてみよう。ここにテープをしっかり貼って強度を保とう。」といった新たな工夫の楽しさも味わえました。そして、子供達が遊びにあきたら、新聞紙は古新聞入れに、竹ひごは取っておくとまた来年使えます。凧糸は洗って、次は本来購入された目的である、焼豚づくりの時の出番を待ちます。つまり無駄もありません。

本当に楽しむために、モノを「買う」から「作る」という発想の転換もありなのではないかと思います。



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2012年1月6日金曜日

書くことは戦うこと

2012年、今年一番最初に読んだ本は、曾野綾子さんの「貧困の僻地」。この本は著者が世界各地の極限的な貧困の現場を自らの目で見て感じたことを書いたレポート兼エッセイだ。私は小説を全くといって読まないけれど、小説家の書くエッセイは好んで読む。この本の中で最も印象に残ったのは以下の記述。
ものを書く人々は、一面でもっとも惰弱な作業に従事しているように見えるし、文章を書くという行為は、少しも雄々しくはないが、そこには一種の戦いにも似た緊張感があることも本当だ。
私は全くもって賛同する。自分がブログを書く理由の一つが人前で単に話すこととは違い、実名であえて後に残る文字として世に自分の考えをさらすことで、それに対する賛同・反論の両方を受け取る緊張感を保ちたいからだ。
緊張感の無いところには発展は無いと思う。女優の方々もデビューして、人に見られるという緊張感にさらされるからこそ奇麗になっていくという。

別に非難されてもいいじゃないか。自分自身で一生懸命に考えて、生きてさえいれば。



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米IBM初の女性CEO誕生に見る「変化への対応」

本日の日経新聞夕刊「ニュースな人ヒト」にバージニア・ロメッティ氏が掲載されていた。男女平等が唱われているアメリカでさえ、創業者を除き、女性社長の割合は決して高くない。2009年のデータではForture500社の中でも女性社長はたった12人しかいない。そんな中で、同社が性別に関係なく、本当に有能な人物を選んだことに私は敬意を表したい。
また、同記事によれば、IBMを世界的企業にしたトーマス・ワトソン・ジュニアは以下の言葉を残したとのこと。
「組織が移りゆく世界の挑戦に応えるには、信条以外のすべてを変える覚悟をもたねばならない」
これまで数々の危機に直面しながら、IBMが100年間経営を続けられたのはこの言葉そのものが信条としてあったからなのだろう。この言葉は現代においても、全く色あせていないばかりか、むしろ「組織」という言葉を「個人」に置き換えてもそっくりそのまま当てはまるのではないかと思う。
個人としても職業人として生き残るためには、常に激しく変化が求められる時代。だからこそ、どうしても譲ることができない自分自身の信条については、むしろ確固としたものを持つ必要があると実感する。



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2012年1月4日水曜日

C世代・ジェネレーションCが次の時代をリードする

日経新聞に元旦から「C世代掛ける」という連載が始まった。正月の記事に相応しく、これからの時代をリードするのはどういった人々かということにフォーカスしようとしている。C世代とは、この記事には説明する言葉として以下の記述があった。
コンピューター(Computer)を傍らに育ち、ネットで知人とつながり(Connected)、コミュニティー(Community)を重視する。変化(Change)をいとわず、自分流を編み出す(Create)。ジェネレーションC、未来へ駈ける。
これまで、C世代に等しいジェネレーションC (Generation C)という言葉については、Nielsenが2010年10月に行ったカンファレンスでDDB SydneyのDan Pankraz氏によって以下のような定義付けがあった。
Unlike Gen Y or Gen Z, Gen C is not an age cohort.  “Gen C are teens and 20-somethings that have been “hatched’ out of social media. What ‘C’ stands for has been widely debated. A few years ago it was about Generation ‘Content’ – now it’s about a multitude of things; constant connectivity, collaboration, change, co-creation, chameleons, cyborgs, curiosity. But most of all, Gen C is the ‘Connected Collective’ consumer,” Mr. Pankraz explained.  
【以下拙訳】 
ジェネレーションYやZと違いジェネレーションCは特定の年齢の集団ではない。「ジェネレーションCは10代後半から20代にかけてのソーシャルメディアから生み出された。Cが何を意味するのかは広く論争があった。数年前までそれはコンテントであるということであったが、現在は複数の意味を含んでいる。それらはコンスタント、コネクティビティ、コラボレーション、チェンジ、共同クリエーション、カメレオン、サイボーグ、キュアリオシティである。しかし、それらを総合すると、ジェネレーションCとうのはつながりあう集合的な消費者のことである。」とPankraz氏は述べている。
この引用の冒頭にあるように、ジェネレーションCとはジェネレーション(世代)という言葉が使われているものの、特定の年齢層をだけに限定されるべきものでは決してないと私は考える。
確かに現状は、ジェネレーションCを構成する大多数は生まれながらにインターネットを活用するデジタルネイティブと呼ばれる年齢層に違いがない。しかし、ジェネレーションCを生み出すのは単なる生まれた時期ではない。それらを生み出すのは普及するインターネット、情報端末であり、ソーシャルメディアである。現実、昨年一年を振返っただけでも、スマートフォンとFacebookを始めとするソーシャルメディアの普及は決して若年齢層に限ったものではなく、私の周りでも30代どころか、40代、50代、60代という年齢層にまで浸透してきている。つまり、ジェネレーションCの構成員は日々各世代において出現し、増え続けていると考えるのが正当ではないかと私は考える。

ソーシャルメディアを使い始めると、年齢を問わず、そこで人々は知人とのつながりを深め、自分が所属するコミュニティーの重要性を意識し始める。そして、さらにそこで、自分流のやり方・考え方について意見を求め、行動へと向かう。
元旦の日経記事に比較し、不足しているのはたった一つ「変化をいとわず」という部分だけ。

日経新聞に言われずとも、C世代・ジェネレーションCが日本の次の時代の牽引役になることは間違いない。それは決して、未来を若者任せにするということではなく、全ての世代、年齢層の人々が自らをC世代の構成員として自覚し、自分たちの手でこれからを築きつづける必要があるということ。

デジタルネイティブではない世代に足りないことはただ一つ。
それは「変化(Change)をいとわず」ということだけ。

あと一歩踏み出す勇気だけで、時代は変わります。



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2012年1月1日日曜日

門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

新年明けましておめでとうございます。

タイトルの言葉は一休さんでお馴染みの一休宗純のものです。
一休さんが言うとおり、お正月が来る度に、人は死に向かって確実に一歩一歩近づいています。これにはどんな偉い人も、どれだけお金を持っている人も逆らえません。
「お正月から死ぬだの何だの縁起でもない」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
でも、私はだからこそ、家族そろって健康に新しい年を迎えることが出来たことに一層感謝します。そして、今年も一日一日を大切に悔いなく生きて行きたいと思います。

今年が皆さんにとって沢山の幸せを心から感じることができる一年でありますように。

今年もよろしくお願いします。



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