2011年2月2日水曜日

ハイビジョンテレビと日本文化

わが家で使っているテレビは1999年以来使っているパナソニック製のブラウン管だ。それも、まだ画面に若干丸みがある古式ゆかしいブラウン管である。昨年末のエコポイント駆け込み需要にも乗らず、7月のアナログ波終了まであと半年を切っているのにやっぱり使っている。そもそも私は最近特にテレビ番組に興味がないし、家内も家事と子育てに忙しく見る暇もないので、買い替えの必要性や恩恵が感じられなく、まだ使えるのでそのままでいる。
その反面、新しいテクノロジー好きの私としては家電量販店にいく度に最新のテレビのチェックは欠かさずしている。ここのところすっかりフルハイビジョンが普及して、特にSHARPのQuatronなど初めて見たときはその鮮やかさに感動したりもした。
ところで今年になって、私が子供の頃からお世話になっている親戚のところに久々にお邪魔する機会があった。周りを田んぼに囲まれた日本古来の旧家であるその広い居間には46インチの立派なテレビがおいてあった。その日は子供の頃から馴染みの近しい親戚がコタツにはいりながら、そのテレビを見ながら雑談をしていた。でもなんか以前と違って落ち着かないことに気がついた。別に間柄がよそよそしくなったという訳ではない。正直、テレビの存在感が大きくなりすぎているように思えてならなかった。
そのテレビが映し出す映像は大きくて、そしてとても明るく鮮やかだった。どうも、それが私には刺激が強すぎるように思えた。番組に興味がないため、じっと見入っていなかったがそれでも見ていて、明るすぎて正直目が疲れるようにも感じた。その時、私の今年の抱負である「古典を読む」の一環で読んだ、谷崎潤一郎の陰翳礼讃に書かれていた内容を思い出した。この本を通じて主題は私の理解では、著者は日本文化の美しさは暗さの中での微妙な変化にあるという。文化とはその中にいて非効率的だけど安心するものであると司馬遼太郎が何かの本で言っていたように記憶する。古い家、コタツを囲んだ談笑。本来落ち着くべき気分になるはずのものが奇麗に映りすぎるテレビで何か落ち着かないものになっているのではと考えた。
そもそもエジソンが電球を発明し、人間が電気でつくられる明かりに触れてから百数十年くらい。人類の環境適応の速度から考えるとほんのつい最近という程度ではないか。私個人としては最新のテレビが映し出す光で合成された鮮やかな色は、毎日目に触れるにはどうも刺激が強すぎるのではと思えてならない。

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