2011年3月22日火曜日

原発という名のパンドラの箱、そして希望

この文章を書き始める前に、この度の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げると共に、被災者救済や復興支援で日夜、命をかけて働いて下さっている皆様に深い敬意を表します。
今回の東日本大震災にともなう原子力発電所の事故をきっかけに、思うところがあり文章を書きます。私は原子力発電に関しては、反対派でも推進派の何れでもありません。これまで積極的に自分の頭でその是非や安全性について考えたことがありませんでした。ただ何となく、あの悲しすぎるHiroshima、Nagasakiの経験を持つ国だからこそ、大丈夫なんだろう。戦後の焼け野原から技術立国で世界のトップをいく日本だから大丈夫に違いない。その程度の浅い考えでした。でも、今回の原発被災で事実を目の当たりにし、100%の安全は無いということだけは理解しました。
あまり聞かれたことが無いかもしれませんが、「パンドラの箱」という言葉があります。ギリシャ神話から来たものです。「開けてはいけないもの」、「禍いをもたらすために触れてはいけないもの」を意味する慣用句として時折、使われています。Wikipediaから引用すると概ね以下の内容です。

『ある日パンドーラーは好奇心に負けて箱を開いてしまう。すると、そこから様々な災い(エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど)が飛び出した。しかし、「ελπις」(エルピス)のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその箱を閉めてしまった。こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。』
今回の福島で原発事故が発生し、その行方を見守りながら、この神話を思い出しました。不謹慎とお叱りを受けるのを承知で書きますが、福島原発をパンドラの箱に例えて考えたのです。誤解をしていただきたくないのは、私は原子力については全く素人であり、別に放射能が漏洩した事実を大げさにしたい訳では全くありません。私が伝えたいのは被爆された方々の健康への危惧はもちろんのこと、放射能という見えない、よく影響が理解できないものに対して人々が抱く恐怖心、周辺国まで及ぶ不安感、さらに国や電力会社へのやるせない怒り等々、様々な負の感情が同時に外に出てきたように思えたことです。
先ほどの、「パンドラの箱」の説明文中に『「ελπις」(エルピス)のみは縁の下に残って』とありました。このエルピスとは何かについて諸説有るらしいですが、今、私が固く信じたいのは「希望」説。『数多くの災厄が出てきたが、最後に希望が出て来たので人間は絶望しないで生きる事が出来るとされる。』
福島原発の現場では、放射性物質の大量放出を防ぐため、まさに命がけで放水冷却活動や制御回復などが続けられています。私はそんな方々の命がけの行動の行く末について希望を持ち続けたい。他の広範囲な地域でも同様に復興作業、被災者救済にご尽力されている方々が多数いらっしゃる。くやしいけど、被災された方々の苦悩はまだまだ続いてしまうのかもしれない。それでも、最後に残った「希望」を私は握りしめて絶対に逃がさない。

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